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阪神・淡路大震災から16年

昨年は、震災についてはブログでは触れませんでした。
なぜか昨年までは「思い出したくない」という思いが強くて。

でも、今年は書こうという気になりました。

神戸新聞記事より

今年も神戸東遊園地で追悼式が寒空の下、行われ、
各地でも追悼イベントが行われたそうです。

震災犠牲者の数の竹灯籠に火が灯され、午前と午後の
5時46分には黙祷をささげます。

この追悼イベントの様子・それから報道されない、
神戸市役所前での「追悼・抗議イベント」の様子を、
ミニコミ新聞記者時代に取材したことがあります。

抗議イベントというのは、神戸市のハード面優先の
復興施策に対して抗議するものです。

あの震災から1週間も経たぬある日、当時の篠山神戸市長は、
当時、反対議論もありながら、進められていた神戸空港建設工事
について、こう語ったのです。

「神戸空港を推進します」

あの地震の直後に・・・・

神戸空港構想は、それまでの神戸商戦や山を削って
埋め立てたポートアイランド・六甲アイランドなど、昔の
右肩上がりの時代に構想されたものです。

その後、バブル経済もはじけ、不況もあり、決して今までの
やり方がうまくいくとは限らない状況に変化したところで、
あの震災が襲いました。

まずは街の復旧・生活再建が一番であり、亡くなった6000人
以上の尊い命があるのです。

被災者は、その時、誰も神戸空港建設のことなど頭になかった
でしょう。

その後、神戸空港は30万人もの反対署名を無視して、
建設が始まりました。

そういう神戸市の態度、街はきれいに戻り、今では悲惨な
姿は見えません。

けれども、震災後の問題がすべて解決した訳ではないことに
対する神戸市の姿勢を問う抗議行動です。

こういった事は、マスコミではまず取りあげられません。

私は、数年前、それを市の追悼行事とともに記事に載せました。

それから、神戸の東遊園地では、たくさんの団体やボランテイァの
方々が忙しく動き回っていました。

記帳すると、ある女性から「まあまあ、遠い所からわざわざ・・」と
声をかけられたのですが、もともと神戸市民です。

今は神戸市を離れても、心はやっぱり神戸にあります。

神戸を愛する気持ちに変わりはありません。

献花して手を合わせ、その後、ボランティアさんが
作ってくれた、ぜんざいをいただきました。

あの何年目かの17日も寒い日でした。

その、暖かい、ぜんざいのおいしかったこと。

16年前の今日は、神戸市内にいてパートナーは深夜の
アルバイトへ出かけて不在、当時5歳の娘と2人でした。

パートナーや実家の安否がわかるまで、どんなにハラハラ
したことか、今も忘れません。

パートナーがアルバイトしていたビルは、全壊でしたが、
幸い、駐車場にいた彼は無事でした。

そこから自宅まで帰るのに交通手段がなく、歩いて帰ってきた
とのこと、その途中、見た光景は変わり果てた街の姿だった
そうです。

私の実家には、家が全壊してやってきた伯父と伯母が
ふるえながら居たそうです。

私の住んでいた団地は、幸い倒壊の心配はなく、火災も
起こらず無事でした。

でも家の中は、倒れた家具だらけ。ドアは歪んで開きません
でした。近所の人が、私と娘を隣の部屋づたいに出してくれ
ました。

その日は、余震にふるえながら集会所で寝ましたが、とても
熟睡などできる状態ではなく、その夜から自宅へ戻りました。

その後、1週間は水道が止まり、ガスは2週間止まり・・・

この時期になると、あの日のことを思い出さない日は
今もありません。

当時、関西は地震が少なく、「神戸には地震は来ないよ」と
地震保険にも入っていない人がほとんどでした。

しかし、日本中のどこでも地震は起こりうることが明らかに
なり、東海地震・南海地震も周期的に起こっていることも
明らかになりました。

兵庫県民は、今後10年間、大きな地震は来ないだろうと
楽観的に考えているという記事を読みました。

楽観的なのではなく、そう思いたいんだ、ということが、
経験者である私にもわかります。

もう、あんな思いは誰もしたくないのです。

それでも、災害への備えは不可欠だということも同時に
知っているはずです。

1月17日、やっぱりあの日の事を忘れないでおこうと、
今日は書いてみました。

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日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

阪神・淡路大震災当時、私の住む三重県でも震度4の揺れがありました。
幸い我が家は何事もなかったものの、いつもの地震と違ってかなり長い間揺れていて「何か、違う!」と思ったことがあります。
学校に行くと、先生も生徒もみんなテレビで神戸の惨状が明らかになってくるのを息をつめて見ていました。
時間がたつごとに、死者、負傷者、被害が明るみに出て大きくなってくることに恐怖を感じていた15歳、高校受験間近の冬でした。

地震は自然現象なので発生するのは仕方ないことなんですが、その後の対応が重要だと個人的に思います。
一早い、ライフライン復旧システム整備、行政や関連各所連絡整備、安全・安心できる生活空間提供、災害補償など16年たって進んでいる部分もあると思いますが、まだまだ足りない部分もきっとあると思います。
そしてマスコミが報道しなかった事実などについて、当事者だけが知っていることなど、世に知らせていくことも大事だなと思います。

あの日の早朝の激しい揺れに驚いたこと(大阪でもかなり揺れたので二階の部屋のベッドの中で震えたのはよく記憶しています)それ以上に、その後でTVをつけた時の驚きは忘れられません!!!

当時、宝塚ファミリーランドで仕事してたダーリンは、通れない道を歩いて水や食料品を持って行ったと語っていて、彼もやはりこの日のことは忘れられないと毎年語っています・・・・・

ここには地震がない・・・・なんて誰にもいえない言葉ですよね。
もう二度とあんな体験は誰もしないように・・・・とは言いたいですが。
そのためにもこの日のことを風化させないようにしたい!!とも願います!

眠りんさん

三重県でも震度4だったんですか?
かなり広い範囲で揺れがあったようですよね。
私は当日は、まずすぐ前の公園に出て、それからは、ほとんど団地の
集会所で過ごしたので、ラジオだけが情報源でした。
ただ歩いて帰ってきた時、夫から、すごい事になってる、と聞かされて。
翌日、テレビで見て初めて惨状を知りました。

自衛隊の出動が遅れたことなど、後から指摘された事、その後に教訓として
生かされた事などがたくさんありますね。

それから、報道されないこともたくさんあります。
避難所での性暴力があったことを、支援活動団体が電話相談で確認してます。
マスコミには信じてもらえないそうです。

地震直後は譲り合ったり支え合ったりしていた人たちも、避難生活が長引くにつれ、
人間関係にひずみが出てきたりも。

当時、私の住む団地も、半年後の補修工事の時に自治会役員になってしまいましてsweat01
いろいろトラブルがあってイヤな思いもしましたですsweat02

ほんと、いろいろあったなあ~~

くるみ♪さん

くるみ♪さんは、当時、大阪にお住まいだったのですか?
わあ、もっと遠方の方かと思ってました。

大阪もかなり揺れたと聞きますね。
ダーリンさまは、宝塚ファミリーランドでお仕事されてたんですね。
それは大変だったでしょう。
あの頃は、皆、リュック姿で線路沿いを歩いて帰路についたものです。

千葉にいた私の兄も、実家へ帰るのに交通手段がなくて、やっぱり歩いて
帰ってきて・・・神戸にいたらお風呂に入れないのが辛かったようです。

あの時ほど、生きている・生かされているんだと実感したことはありません。
ちょっとでも時期や場所が違っていたら・・・時間ももっと遅い時間だったらと思うとゾッsign01とします。

やっぱりこうして毎年、思い出すことは大事ですね。

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